空-Q-所為

在の実践

イマジン

聴き華ある A 面あれば煮凝りみたいな B 面があり。柔和な表情にかくす冷淡な無関心。奔放なキャラクタに潜む実直。裏があったり、なかったり。

「あなたにわたしがなにかを語る」なら、きっと脳裏には「その正反対を語るわたし」がいる。可能性のなす空間のなかで選びつづけるわたし。消えつづける「事実にならなかっただけの可能性」も、もしかすると等価に "わたし" だったかもしれない。そして、積み重なった妄想が、排水溝に詰まって、ナマモノだから澱んで、やがて B 面になる。それを生だと肯定したい。

なにもいわないことを選びつづけることも、あるいは自然な身体状態だろう。とするなら、きっとメッセージを届けること自体が「狂気的」? どうしてわたしはあなたに、いま、ここで、このメッセージを届けなければいけなかったんだろう。(どうしてあんなこと言っちゃったんだろうな。) どうしても言わなきゃいけない気がしたから。なんとなく。でも何故?

「吐き出されぬまま朽ちていった言葉」のモチーフでも想像して、十五分くらい瞑想しましょう。

曖昧な感受のまま、ぼうっとしていると、なんだかむしろそのままでいいようにもおもう。泥みたいに安らかで、(なにもなさげで、) ゆらゆらして、ナイーブなこころのうごきとみつめあっていたい。でも瞼の裏が渇いて仕方ない。あるいは退屈で、陰鬱な B 面。

あるいは、三人のあなたをひとりずつ異な怨みで呪うとき、激しく誹るその毒性だって、「大切なわたし」由来のもの? きいてて気持ちよくはないだろう。ウザったくて仕方ない。痛く不毛な B 面。

こんな大好きな「わたし」に与えられた「現実のわたし」が "モサい" のって許せない。許せなさすぎて愛着すらわいて、ナルシスティックで微病的。なんだか自分で自分をダブルバインドして、たのしくなっています。そうやって鍋のなかに目についたスパイス全部いれたって、美味しいカレーにはならない。でも、あなたもおなじでしょう?

知られたくない秘密だらけ。どこもかしこも裏。建前って本音の裏っ返しだから。でもいつかあけっぴろげにして、言葉にならないわたしのぜんぶあなたに知ってほしい。恥ずかしいようなことばっかりだけど、もういいやって - 両 B 面、今日は。

自分がいなくってもまわっていくようなシステムのなかに自分のエゴをだしていくのって, しかも無制限にそれを繰り返すのって本当にキモいテロ行為なので, ぼくみたいな気の狂った人間には残念ながら許可されていないんですよね. それでもどうしても amplify される, いろんな, くだらないものが. けどそういうものを全部ぶちまけてやれたらどれだけ気持ちいいだろうね.

サマータイム

どうでもいいやー, と, なっている. 即時的な気分のブレ (うつろい) に左右されて, あるいはなんでも急きたがるような性質によって …… (焦っている ?), なんでも直ぐくちゃくちゃの紙玉にしたくなる. 通奏低音みたくに鬱屈したムードが漂っては拭えない. それは哀では止まらない.

あなたとはララバイしちゃったみたい. それでも, いまでも幻影を探し求めてる …… (空虚なことばかり得意になってしまった私に同情の視線を寄越してください, ぼくにもわかるように). 際限のないゆめみたいで, 終わらない始まらない愛だけでわたしは痛いみたい. その痛みは焦点をズラしても癒えない.

錠剤をのむような春はきっと終わってしまって, 今日から (昨日から) は骸のような星でゾンビ・ダンスをしよう. いつまでも狂った調子で声でうたって, 愁帯びて泣こうよ. 一緒にバカみたく泣いて泣いて, そんでこの苦しいのおしまいにしようよ. ひとつずつの細やかな揺らぎを慈しみ愛したい. 大丈夫だっていって. ぼくのことを心配して. その手で胸に触れて. 脊髄の中心軸まで溶かすようにして.

ひとつかみだけの幻覚のために, どうにも幻覚じみていない (わたしを根底で拒絶する) 世界観が, なんだか虚脱にアンビバレンス. 目を瞑って, トランス状態に妄想した経験 - そこでわたしがバランスを崩すと, 反射的に膝が構える. 染みついた恐怖みたい. 奈落の底には, 落ちたくないな - きっと死んでしまうし, その瞬間は痛いだろうから.

 

大事なことだけがいえなくなってしまった. それと, 寂しいな.

ソフトマターに幻視する生

ふと, 思い出すようなかたちで …… 脳というのはソフトマターだからね, とそういうことを言っていたことを.

あるいは真の意図こそわからないけれど, 最近ようやくその言葉の味を受け入れられるようになってきた. 自分が経た紆余曲折を概視するとともに, 親近感, 感服, そういう種類のソフトな現れを感じる.

元気でやっていればいいけど, みたいなことを, 少なくとも時には思っている. ただ, 感性の輩どうし大丈夫だろうとも勝手に思っている. そういう愛ゆえの不合理.

状況横断的技術, 複雑系の視野

大概の状況というのは, (一見そうみえなくとも) 複雑な要因がそれぞれ密接に, 有機的に, 相互関連しつづけている*1. しばしばこれは, 実際に我々がなにか「具体的目的」のために行動を起こすための obstruction となってあらわれる. しかもこの obstruction は当然個別的な状況に依存し, しかも複雑さゆえに「総体を完全に記述する」ことは困難を極める.

このとき,「器用である」とはどのようにして可能であるのだろうか. ある種にこれは, こういった「複雑系」の族に対して横断的な性質が見出しうることの状況証拠であるとして理解できる. 意識的であるかに拘らず, 行動原理がこういった "横断的な性質" のもとで目的論的に適合している場合に, しばしば「器用である」という現象が実現される.

ではそのような "横断的な性質" として, どのようなものがあるか …… まずひとつには, ある種の意思決定のパターンによって, 目的論に適合した行動を選択できる - というものがあるようにおもう*2. そしてその意思決定のパターンとはどのようなものか …… 自分は知り得るメソッドは結局のところモデルの設定あるいは学習のいずれか (その混合) に帰着される.

モデルの設定による意思決定とはすなわち, 状況を近似するであろうモデルを設定し, そのモデルのもとでの solution (それを現実に翻訳した行動) を実行する, というように要約されるだろう. すなわちひとつの「複雑系あるある」として, モデルによって近似可能であるという性質が挙げられる.

知能の一側面として, モデルの設計技術あるいは計算技術 (または逆算技術) を抽出すると, このとき知能の存在が目的論的行動をおおまかに保証することが理解されるだろう. モデルを設定するとうまくいく範囲においては, モデルを設定できる技術をもちその技術を実践すれば, 一定の再現性をもって目的を達成しうる.

もうひとつのメソッドに学習というものがあるが, これはある意味では「経験」の有機的累積*3としての身体であると理解している. これは結局のところ直接的に入力と出力 …… より正確にいえば, 身体にわたるセンサーの検知情報のあいだの関連を累積させ, その関連に沿って (半自動的に) 補完物としての入力を実行する, というものであると理解される. これもまたもうひとつの知能の側面であるといえよう.

我々がしばしば知能と呼んでいるものはこういった機構の有機的混合である …… そのように私は理解しているが, 「器用さ」というのは結局こうした状況横断的発想のもとではより統一的の理解できるように思われる.

*1:さらに補足すると, しばしば考慮される (特殊な) 場合には, 我々の意図的な行動により複雑系的状況を変化させることができる (とされる).

*2:トートロジーというより無意味的な言明に思えるかもしれないが, これはひとつには議論範疇の限定 (あるいは規定) であり, あるいは「この範疇の拡大を狙う」といった実践の呼び声でもあり, 逆説的に「日常的とされる状況が何故この範疇におさまりうるのか」という問を提起し, またこの範疇の外側にも目を向けることができる.

*3:近年の人工知能等の着目に伴ってより注目を浴びているように思われる.

だめになっちゃったみたい

いつかみた景色のことを, もう信じられなくなった. あの日の微笑みも, 軽蔑と区別がつかなくなった. ぼくが軽んじたすべての霊が, 幾千の恨み言でぼくを呪縛する - 因果ゆえに. どこにも行けなくなったなら, もう終いかもしれない. 縋るようにいるけれど, 打つ手はみあたらない.

機能

文化 …… 意味がオブジェ化された領域でのボトムアップオブジェにおいて, 結局のところ支配的文化があるような気がしてもそれは過学習で, めいめいやっており, ただ人の解釈があるだけ.

モノとしての身体 - その機能に, では倫理性の優劣をつけるなら, 一体どういうふうになされていくのか ? 結局のところ, ボトムアップでできていく視点 …… ある意味では身体的な視点において, トップダウン的な …… 記号論的な視点とのあいだを無謀な素朴さでつないでしまえば, 道理の ubiquity でいくらか耐えても次第に倒錯してもいる.