空-Q-所為

在の実践

世界化可能物, あるいは数学

ぼくは造語で "hogehoge物" みたいな言い回しをよくしてしまう. それはともかくとして.

色々話の筋の通っていない記述があるとおもう. まあ, ブログなのでなにを書いてもいい - そういうことにして. けれどめずらしくひとが読むような想定で書きます.


数学をある程度やってみると, 結構のひとが一度くらいは, 「これうまいことできてんなぁ」みたいな感を抱くかもしれない. なんだか, かなりすべてのことが整合していて, まるでひとつの「数学的世界」があり, そこでは扱う概念は「実体」をもつような気すらする. 「あれ ? ただの記号のはずなのに, これらはなんだか実体を持っているような気がする - そしてわたしはこの数学的世界に関する物理法則を学習して, この世界の挙動に関する直感すら持ってもいる !」

とにかく, ぼくにとってそういう経験は一度くらいはあるし, 多分そういうひとがかなりいたから, 次のような数理哲学的問いが生まれたのだとおもう.

  • 「数学はつくられるものか, 発見されるものか ?」

この問いはまあ, ある意味で解答不能な側面があるし - (最近の自分の語法でいえば) まったくもって "的外れな問い" であるのだろうともおもう. ついでにこの問題は多分いくつもの (ある意味では) 分離可能な …… しかも分離してもむずかしい問題がかくされている. というかこの問い自体が多種多様に読み替えることもできてしまう, そういった曖昧を孕んでいるから - ぼくはそういう曖昧はこういった探究においては一般的には好きではないのだけど - まあよくある slogan ということで.


つくられるもの, の立場っていうのも色々あると思っている. たとえばひとつの側面としては, なにか数学的な探究を行う際に, 自らで概念を設定して, 命題を設定して, それの繰り返しによって, ある意味では建築物のようにして - 数学をやっている. 実際に常にその側面はあるようにおもう. さまざまな概念の発明によって, 数学は進歩してきたらしい.

しかしながら, しばしばその概念・命題の設定において, 「人間にとってわかりやすい」ようなオブジェがそこに想定されているようにおもわれる. 「関数」とかはひとつの基本的な例かもしれない - まあ関数概念だってそもそも人類の文化年表のなかでもわりと最近のほうで生まれたのかもしれないが.

「人間にとってわかりやすいイメージ」をコードすることでしばしば数学はなされている. これは数学的事実ではなくて, 数学を営みとしてみたときの, 人間の傾向についての記述. (もちろんぼくはぼく以外の人間がほんとうにどう思っているかはわからないけれど, しばしばこういう問題意識は共有される.)

ここで「コーディング」の問題は, ぼくは哲学に詳しくないからあまりわからないのだけれど, 多分「記号論」と呼ばれる分野においては非常によく探究がなされているのかもしれない. いろいろそういうのも参照すべきかとは思うが - まあなにかそういう本を読んだことがあるわけでもないので. ただとにかく「コーディングが何故可能なのか」っていう問題はかなり根源的なことなんじゃないかとおもう. たとえば, 「世界に関する感覚から世界に関する想像を構築することは何故可能なのか」とか, 「文を読んでその意味を理解できるのは何故なのか」とか, そういう類の問題だと思っている. もしかしたら, むずかしいということは, コーディングという概念自体に強い hidden constraints がかくれていたりとか, 素晴らしい "的外れ" である可能性はあるけど, とにかくぼくにはまったくわからない - わけのわからない問題.

けれど, とにかく, 話を戻すと - 人間が記号列によって記述するさまざまの数学的概念は, なにかをコーディングしたものになっている. しかしながら, 「なにかってなに ?」.


なにかってなんなんだろうか. われわれは "1" を実際にみたことがない. 多分. けれど, 何故か "1" のイメージを持つことがある …… 素朴には. (こういった素朴さに制約条件が秘匿されているのかもしれないけれど - とにかく.)

でもまあ, 大雑把にいったとき, 「ひとつのもの」に共通して受ける印象だろうともおもう - しかし「ひとつのもの」ってよくよく考えると意味不明だ. 何故こういう発想がわれわれは可能なんだろうか.

明快なアンサーをもっていないが - 一旦保留にして, けれども "1" くらいの場合には, 世界に対応物がある気がする. しかしながらたとえば …… "楕円曲線", "副有限群", "Cohen-Macaulay 環" とかそういうのって世界に対応物ってない気がする. (このブログをもし読むひとがいて, 例にあげた概念を知らなくてもいいんだけれど …… ひけらかしたいわけではなくて, 高校数学くらいまでだと日常に対応物がありそうな気がして, いい例があんまり思いつかなかったというのはある. まあ …… どっちにしろ知らない場合は, 対応物をまわりではみかけていないはず, ということで …… .)

けれどこれらは「人間に (比較的) わかりやすい」概念であって, ある程度の「共有されたイメージ」によって議論の意思疎通がなされる. 対応するオブジェが, デコード先が実在しないのに !

これは想像力に関する高度な問題であるような気がしてきた - このとき, ふと「数学的世界」のようなものが「実在」するのではないか ? と思いたくなる - 思ったりする. そしてわれわれがやっているのは「数学的世界」を発見することだけなのではないか ?


このことについて, ひとつの (ぼくにとって) 新しい視点を与えてメモするのがこの記事を書き始めたときの目的だったので, 一旦それを試みる.

結局のところ, 我々はさまざまな整合した状況に対して, 強固な整合性が与えられたときに, それを「世界」として学習することがあるのではないか. それがどうして可能なのか, ということはコーディングに関する問題 …… としてブラックボックスに放り込む (あまり解決していないような気もするが). とにかく, 先程のよくわからない数理哲学的な問題は, こういった想像力やコーディングに関する問題を逆転させたものが内含されているのではないか. こういった「人間にとってわかりやすい整合した事実群」みたいな, 「世界」的なコーディングを可能にするオブジェのことを「世界化可能物」と一旦呼ぶ.

こうすると, 問題は「ある意味では」簡単になって - ひとつのアンサーが与えられる. つまり, 「結局のところ, 人間は数学のなかに世界化可能物を見出しているからコーディングによって数学的世界があるように想像可能なのだ」というもの.

もちろんこの "アンサー" は, 問題の言い換え程度に近いもので - 別になんら問題を解決してはいない. 想像力のメカニズムについてはなにもわかっていないし (これは仮に記号論の文脈になんとか帰着できるとしても), どうして数学のなかにそのような世界化可能物を見出すことができるのかもわからないし …… ほかにもあげればキリがないだろうが, とにかくこういった言い換えができるのではないかということが当初いいたかった.


当初の問題 …… つまり数学がつくられるものか発見されるものか, という問いは, この "数学" の部分をいろいろな単語に …… "デザイン" とか, "小説" とか, そのほか色々な単語におきかえても slogan として成立する問いであるとおもう. ただ, 数学のひとつの特徴としては, (一応建前上は) 「すべての命題が証明され, その意味で論理的に正当でないとならない」という, ある意味では非常に強い制約が課されている.*1

そうあったとき, そもそも何故そのような強い制約のなかで, 「世界化可能物」があるのか …… "デコーディング" されうるコードがあるのか …… .*2

たとえば, どうやら現実をみたときに, 「ひとつのもの」と「ふたつのもの」をあわせると「みっつのもの」となる. そして, 「ひとつ」を "1" に, 「ふたつ」を "2" に, 「みっつ」を "3" にコードする. すると, 何故か 1 + 2 = 3 という数式が実際に数学において論理的に成立している !

つまりひとつの発見として, どうやらここでのコーディングは「世界における正当性」を「論理的正当性」に移すことができるらしい - この探究によって, (少なくとも素朴には) 世界認識のなかに「正当性」的感覚があることが理解できる. そして, あるいはそのようなコーディングについてこれを「直感」と呼んでいるのではないか ? このとき非常に重要な問題として …… 「そのような直感はなぜ存在しうるのか ?」というものがあるだろう. けしてこれは先の足し算の例においても自明なことではない.

最近ぼくはこういった直感のことを指して, あるいは「物理的直感」といったりすることがある - つまり, 「数理世界的想像のもとでの物理的直感でもって議論あるいは対話を済ます」ということはわりと数学の営みにおいてはなされていて, そういうことってある意味で「物理」だなあとおもったりしている. "1", "2", "3", とものを身の回りのもの数えることをぼくはある意味では物理だとおもっていたりもする.

とにかく, そうすると, こういった物理的直感に関する問題というのは, 記号論に関してさらに正当性と論理という付加構造をつけたうえで, どうしてそのようなコーディングが存在するのかを問うていると思うことができるかもしれない.


コーディングに関する問題は, 少なくともぼくのなかでは, 原則的に「結局なにもわからない」という結論に至る. しかし, とにかく (だからこそ ?) コーディングに関連する問題への帰着可能性をみれれば - 問題を保留的に …… "ごくわずかに" 解決したことにできるかもしれない ?

色々話が散らかっているが, 数学と想像力に関して思ったことをかいた - 気が向けばまた探求を試みたい.

*1:この制約が「世界化可能性」を誘起しうるのかもしれない ? よくわからないけれど.

*2:今思ったが, デコーディングもひとつのコードかもしれない. そうおもったときに, "コードのデコーディング可能性" っていうのは非常に非自明な問題なんじゃないか ?