空-Q-所為

在の実践

構築と脱出

「構築・被構築状態からの脱出」という図式をまず想定する. このような図式 (framework) は, しばしば実践 “の形態” を [近似 | 言語化] するさいにあらわれる.

実践によって受ける印象をもとに実践をメタ的に理解したオブジェを仮に A とよぶとき, A の形態のことを指して「実践 “の形態”」と表記している. 実践そのものは, 言語によって記述したり, 分析したりするような対象 - あるいはオブジェではないとわたしは考えている.

まず注意すべきこととして, あくまでもこれは記述であり, 言語的である. これらの二項対立的な記述が hidden constraint(s) をそこにもっている可能性を無視せず, あくまでも注視可能なものとしておくべきである. このことをさきに述べおく. 一旦「構築・被構築状態からの脱出」という framework について考えてみたい. 構築とは, 大雑把には「ものがない場所に, わたしが労をおこなうことで, ものを組み上げる行為」のようなものであると理解できる. このとき, 「記号としてのもの」なるものの性質に着目すれば, これはひとつには「記号を書き込む」行為であり, ただしそれは「つくる」方法によりなされる - そのようなものとして異化 (解釈) できる. これはひとつには「ボス」の仕事, あるいは「ボス」の命じる仕事である (基本的には). しばしば, 構築物は「記号」としての役割を果たし, あるいは system としても機能する. その構築物そのものに視点を向けさせることで, 空間の自由な広がりを遮蔽し (そしてその印象を掻き消し) その記号の持つ周辺に意識を (“#” を) 向けさせる.

印象は掻き消されているわけではなく, 不可思議な方法で, 非常に “うまく”, ぱったりと空間の印象が止む - きりかわる.

ここで, あるいは被構築状態からの脱出とは, そこに策定された system を “無視して”, 自由な空間があることを発見することであると捉えることもできるだろう - これは「眼」あるいは「足」あるいは「入力とその解釈」に関する仕事である. これはひとつには「子供」のなせるわざであるようにもおもわれる. これらのふたつの行為は, ある意味で両輪 - いや, 二重の螺旋の方法で実行されるときに, その効果を発揮しうると考える. しかしながら, しばしば「手」よりも「眼」が先行する - これはひとつのむずかしい問題で, みえていないものはつくれないが, みえているからといってつくれるとはかぎらない - この限りない持続機関において労を担う箇所は「手」であり, したがって充足したエネルギーの投入がそこになされなければ, この機関は機能しない. ただ, 適切な「眼」の設定は, ある意味では高度な事項でもある - それは感受について, あるいは身体について, より繊細な (あるいは, 状況により適合した - 適合しない) ものに組み替えてゆくことが要求されるからである: すなわち, 要するにただ注意深く感じるだけのことである. これらの method の適用によって, しばしば project は実行される.