空-Q-所為

在の実践

要されない健康優良児

逆張りってつまり他者に委ねてあとは反射で動いているので - ぼくは採用する気があんまりないのだけど, それはそれとしてみんな風邪薬と咳止め薬飲んでるから - 多分銘柄に多様性が担保されないためなんだけど (人間の好奇と探究の精神 (反射) はスパゲッティのスパゲッティ性 = マスの複雑性と同様わりと普遍的だと思っているから - そう推論するんだけど) でもみんなやってることをやるのってなんか馬鹿げててやだよねって, とにかく, でも逆に咳止めを咳止めとして飲む人間なんかいないから, それこそ逆張りなんじゃないかって思ったけど, 84 * 0.6 錠くらい無駄になりそう - 錠剤の下半分は字義性でできているから.

認識行為

わたしが行為 A をおこなうとき, 「わたしが行為 A をおこなう」ことをわたしが感じてもいる (感受). この感受を受容する行為のこととして「行為の自己認識」とこれをあらわすこともできよう. この行為は実践においてひとつの基本的な - それゆえに hidden constraiant(s) としても機能しうる - ものであると理解している. この行為のひとつの重要なポイントは, 「(記号的な (誤謬を許す) PoV においては) 階層のことなる (あるいはそのようにも捉えられる) 事項のあいだに, "不可思議な link" が構築されること」にあると理解している. この不可思議な link について, これを完全に「同一視」してしまうと (それは錯覚的なことである), 現がより不可解にもなってしまいうる ………… かもしれない. 少なくともぼくにとっては. しかしながら, もちろんこれらを記号的に「分離」するつもりはまったくない - とは言いつつも, 実際にこうして「指摘」をおこなっているという側面がある.

存在しないインターホン

やすらぎの街にいたい. それは, わたしにとっての郵便番号の存在しない住所 - 16 万円ではなくて, 語りあうやさしさが …… こころの奥底に潜むすべての悪意や欲望, 当然, 理想を交換して, あなたの在をさせてほしい. わたしの在をしてほしい. そうして, ひとつになって, ぼくのことも許してほしい.

ぼくのながめる空虚なレーザー光線, ホログラムにあっては, その言葉はなにも反射せず, 当然のものにはふれられず, くだらないことばかりが重要視される価値観オーディションのなかで, 最終的にすることがなくなって, 終いになる. せめて性器のプロファイルでも追求していればいい. 「的外れの真面目風」にぼくは失望しつづけている. 価値観の相違 - なんとでもいえばいいけれど - そうすると, あなたは存在するの ? インターホンの存在しない家について, これはある PoV においては, 理想郷でありつづける: そして誘起されるホームシック. あぶれた孤独の, ただ余白のみの complement - マイノリティっていうのは, 少ないからマイノリティなんだろうか.

くだらないことしか言わないのなら, enumeration をとってきて背番号で交信していてくれ. 馬鹿さ加減に気付くか, ぼくが盲ってことを教えてくれ …… たならいいのに. 宛先のない手紙, ドアノブのないドア, 到着点のない旅, そんなモチーフの織りなす印象網のなかにうつ病も紛れ込んでやしないか ? やさしさのなかで溺れたい. 縋りたい. インスタントをすりつぶしてでも …… …… …… ただ問題は, 「不可逆」という記号に, ぼくは連戦連敗なことにもある. ついで射精のモチーフ.*1

*1:射精というのは, 陰茎から精液が射出される現象であって, 主に性的刺激によって誘起される.

構築と脱出

「構築・被構築状態からの脱出」という図式をまず想定する. このような図式 (framework) は, しばしば実践 “の形態” を [近似 | 言語化] するさいにあらわれる.

実践によって受ける印象をもとに実践をメタ的に理解したオブジェを仮に A とよぶとき, A の形態のことを指して「実践 “の形態”」と表記している. 実践そのものは, 言語によって記述したり, 分析したりするような対象 - あるいはオブジェではないとわたしは考えている.

まず注意すべきこととして, あくまでもこれは記述であり, 言語的である. これらの二項対立的な記述が hidden constraint(s) をそこにもっている可能性を無視せず, あくまでも注視可能なものとしておくべきである. このことをさきに述べおく. 一旦「構築・被構築状態からの脱出」という framework について考えてみたい. 構築とは, 大雑把には「ものがない場所に, わたしが労をおこなうことで, ものを組み上げる行為」のようなものであると理解できる. このとき, 「記号としてのもの」なるものの性質に着目すれば, これはひとつには「記号を書き込む」行為であり, ただしそれは「つくる」方法によりなされる - そのようなものとして異化 (解釈) できる. これはひとつには「ボス」の仕事, あるいは「ボス」の命じる仕事である (基本的には). しばしば, 構築物は「記号」としての役割を果たし, あるいは system としても機能する. その構築物そのものに視点を向けさせることで, 空間の自由な広がりを遮蔽し (そしてその印象を掻き消し) その記号の持つ周辺に意識を (“#” を) 向けさせる.

印象は掻き消されているわけではなく, 不可思議な方法で, 非常に “うまく”, ぱったりと空間の印象が止む - きりかわる.

ここで, あるいは被構築状態からの脱出とは, そこに策定された system を “無視して”, 自由な空間があることを発見することであると捉えることもできるだろう - これは「眼」あるいは「足」あるいは「入力とその解釈」に関する仕事である. これはひとつには「子供」のなせるわざであるようにもおもわれる. これらのふたつの行為は, ある意味で両輪 - いや, 二重の螺旋の方法で実行されるときに, その効果を発揮しうると考える. しかしながら, しばしば「手」よりも「眼」が先行する - これはひとつのむずかしい問題で, みえていないものはつくれないが, みえているからといってつくれるとはかぎらない - この限りない持続機関において労を担う箇所は「手」であり, したがって充足したエネルギーの投入がそこになされなければ, この機関は機能しない. ただ, 適切な「眼」の設定は, ある意味では高度な事項でもある - それは感受について, あるいは身体について, より繊細な (あるいは, 状況により適合した - 適合しない) ものに組み替えてゆくことが要求されるからである: すなわち, 要するにただ注意深く感じるだけのことである. これらの method の適用によって, しばしば project は実行される.

滑稽なる影漁士の甲斐無く

名前ばかりを誦じても, とうとうそれは石になって, オブジェになって, いたるところに液在する - 理想のなかにはきっとなくなってしまうような …… いや, 理想などすべて虚構にすぎず, あるいはそれもまたなにかを秘匿する舞台. 言葉というのはメモ書きにすぎない - いつも不定性を孕み, なぜか疑心暗鬼になれば, とりこめもしないものを理解する - 「それも暴力ではないか」…… あるいはクジラの気配が ………… .

融和するこころのなかにいたい. そこでひとしきり泣いて, 喚いて, すべてがそこにあって, 単調で, それはわたしで, そのままゆっくりと充ちた空洞のなかを落ちていくように眠る …… モチーフ. 影そのものがわたしに在る - わたしがおもうすべてのことを, わたしがすこしずつ秘匿している. それが秘匿される理由も, 内容も, わたしにはすべてわかっている. ただ秘匿されている - わたしがわたしでないみたい. わたしはわたしなのに …… でもそんなの, あたりまえ. 当然わたしはわたしではないのだから.

いくつもの記憶を, 海に放って以来, 段々がらんどうになってしまった - そこは充ちた世界ではなく, どこか虚ろな暗がりにいて, ただ影だけがみえる: そして内側の声は反響すれど, 影は黙して - わたしには届かない. 自閉空間のモチーフ. 舞台ルーン: そのうちに喚くのもどうでもよくなってくる. それがひとつの受容だとしたら, いったい何故, どのようにして受容は進行したのだろう ?

ここはどこでもない箇所. きっと地下深くに構造があるのだと信じて …… あるいは「わたしがつくる」 ? そんなことは "有り得ない" ………… だって "わたし" に意思なんてないのだから. "わたし" は虚な自閉空間なのだから ………… .

そこで影を捕まえて (その試行錯誤はどうにも機能しない) いる. 七千回のエラーを経ておもうことはない - 結局のところ暗がりは気持ちがいい: どれだけ隔絶されていても …… . やがて, 虚構的なまでに平坦な background, 感覚をもった虚な foreground, それは対置などではなくて, おなじ場所を共有して, あるいは倒向きにみれば遠近など pierrot paradox みたいなものだろう. すべてが倒錯した世界で, いくつかのことに諦めを抱いたまま沈む - どこまでも深く, 観念をみな手放して, ただ沈んでゆく ……………… .

受容の方法としての理解

注意 未だ判然としない事柄についての記述.

感受の受容のプロセスとして, さまざまな方法がありうるが, そのなかでも記号的 PoV においての実行, 行為が理解であるとされる (のだろうか). また会得, 体得とは身体的 PoV においての実行, 行為であるとできるか.

どのような PoV をわたしはもっているのか.

受容とはどのような行為で, それは何故いかにしておこなわれるのか.

そしてこの explanation に潜む hidden constraiant はなんなのか.