空-Q-所為

在の実践

system, 卵, …… 縁

以下には, わたしが感じるいくつかの事項についての配置を記述する. 

主題として扱う観念を羅列する.

  • hidden constriant(s)
  • system
  • 身体の有機
  • 無視

hidden constriant(s)

秘匿された制約条件. これはすなわち, われわれが (さまざまな理由によって) 学習 (あるいは過学習, 錯覚) した「通説」のことである. この「通説」は, もちろん社会状況に付随する命題であることもあれば, 身体状況に付随して誘起する「癒着」のことでもあり, とにかくその在り方も多様的・多相的である.

hidden constriant(s) の例としては, 「道徳的に善でないことはしてはならない」, 「道交法は守らねばならない」, 「1 + 1 は 2 である」, 「未来は過去ののちに存在する」のようなものもあげられる. とにかく, このような「非自明な言説」をしばしば「当然化」してしまうことで受け入れていることに気付く. しかしながら, hidden constriant(s) はあくまでも「通説」でしかなく, その字義的な (あるいは命令的な) 効果の無効化を試みたり, あるいは実際の世界について, ときに自閉的なかたちで注意深く眺めることによって, 視界 = view が変質してゆく.

これは, のちに説明する system と, 「無視」, 「ただひとりである」の概念とも関連するが, これらの言葉で説明するならば, hidden constraint(s) に気付きそれを無効化する行為というのは, ある程度には, system を認識し system への囚われを「認識する」行為とも類似している. (この類似は, 等号的類似ではなく, 「縁」的類似である.)

system 

system とは, まさに, 「通説」のとりまく, 厳然とした印象をもわたしに与えうる世界のかたさのことをいう. system に取り込まれ, あるいは押し潰され, あるいは「同化」することによって, 「社会的存在」としての振舞をみせることがある. しかしながら, これは「卵」と十全に同居しないことがしばしばある.

卵とは, system に投げつけられることで押し潰される「わたし」の側面である. 卵について, あるいは「わたし」について (ただひとりであることを身体で知りながら) 注意深く観察し, またその在り方を自分で知るということ. これはまた system を解体することもある. そしてわたしはより「解放される」こともある.

身体の有機

身体は, あるいは現実にある基本的にほとんどのものは, 有機的なかたちである. このとき, たとえば環境のなかに (これはある意味では system である) おかれたとき, 身体はその素晴らしい適応力でもって「通説」に「適応」してしまう. この過程でしばしば「錯覚」を得てしまうことがある.

しかしながら, hidden constriant(s) を知覚したときから, view のなかで環境が変化したことにより身体は適応をはじめ, 卵の形状・形質はいくらか変化もする. これは「解放」と思うこともできるが, あるいは「深淵方向」への囚われと思うこともできるかもしれない.

無視

ほんとうに「わたし」のみに無邪気さでもって着目することによって, system を「無視」することができる. これはただひとりであることを要求する. この無視は, ひとつには創造の源泉たるものとしても理解され, あるいは革新をもたらす. "隠 - 陽"-対応においては「集団」は「陽」であり「心」は「隠」であるものとしても理解される.

ここまで system と卵の二分法によって議論がなされてきたが, これは hidden constriant であった. すなわち, pure な system でも卵でもないもの …… それはたとえば, 冒険者の手記を読むとき, これはある意味で外部的な世界に関する事項であるが, 「不可思議な link」を通じてわたしの内部世界の変遷と同期し, ある意味で卵でもある. さらに思えば, 実は世界にはこういう不思議なものもありあるいはそういうものであふれてもみえるのかもしれない. このとき, これを「縁」とよぶことにすると, 縁による世界のつながりの解釈が一定の妥当性をもつのではないか. これはひとつの「小屋」であろう.